世界怪談名作集02 貸家(05) (かしや)
世界怪談名作集02 貸家(05)
三
爐《ろ》の右手にある化粧室のドアがあいて、その口からさらに老婆の形があらわれた。老婆はその手に二通の手紙を持っていた。また、そのうしろに跫音《あしおと》が聞こえるようであった。老婆は耳を傾けるように振り返ったが、やがてかの手紙をひらいて読みはじめると、その肩越しに蒼《あお》ざめた顔がみえた。それは水中に長く沈んでいた男の顔で、膨《ふく》れて、白ちゃけて、その濡れしおれた髪には海藻《かいそう》がからみついていた。そのほかにも、老婆の足もとには死骸のような物が一つ横たわっていて、その死骸のそばには、またひとりの子供がうずくまっていた。子供はみじめな穢《きたな》い姿で、その頬には饑餓《きが》の色がただよい、その眼には恐怖の色が浮かんでいた。
老婆は手紙を読んでいるうちに、顔の皺が次第に消えて、若い女の顔になった。けわしい眼をした残忍《ざんにん》の相《そう》ではあるが、ともかくも若い顔になったのである。するとまたここへ、かの黒い影がおおって来て、前のごとくにかれらを暗いなかへ包み去った。
今はかの黒い影のほかには、この室内になんにも怪しい物はないので、わたしは眼を据えて、じっとそれを見つめていると、その影の頭にある二つの眼は、毒どくしい蟒蛇《うわばみ》の眼のように大きく飛び出して来た。火の玉は不規則に混乱して、あるいは舞いあがり、あるいは舞いさがり、その光りは窓から流れ込む淡い月の光りにまじりながら狂い騒いでいた。
そのうちに鶏卵《たまご》の殻《から》から出るように、火の玉の一つ一つから驚くべき物が爆発して、空中に充満した。それは血のない醜悪な幼虫のたぐいで、わたしには到底《とうてい》なんとも説明のしようがない。一滴の水を顕微鏡でのぞくと、無数の透明な、柔軟な、敏捷な物がたがいに追いまわし、たがいに喰い合っているのが見える。今ここにあらわれた物もまずそんな種類で、肉眼ではほとんど見分け難いものであると思ってもらいたい。その形になんの均一《きんいつ》があるわけでもなく、その行動になんの規律があるわけでもなく、居どころも定めずに飛びまわって、私のまわりをくるくると舞いはじめた。
その集団はだんだんに濃密になって、その廻転はだんだんに急激になって、わたしの頭の上にもむらがって来た。何かの用心に突き出している私の右手の上にも這いあがって来た。時どきに何かさわるように感じたが、それはかれらの仕業《しわざ》でなく、眼にみえない手が私にさわるのであった。またある時には、冷たい柔らかい手がわたしの喉《のど》をなでるように感じたこともあった。
ここで恐れをいだいて降参すると、わたしのからだに危険があると思ったので、私はかれらに対抗するという一点にわたしの心力を集中して、かの蟒蛇《うわばみ》のような眼――それはだんだんにはっきりと見えて来た――から私の眼をそむけた。わたしの周囲にはもう何物もいないのであるが、ここになお一つの「意志」がある。それは力強く、創造的で、かつ活動力に富むところの「悪」の意志であって、その力はよく私を圧伏《あっぷく》し得るのであった。
部屋のなかの青白い空気は、今や近火でもあるように紅《あか》くなって、かの幼虫の群れは火のなかに棲《す》む物のようにきらきらと光って来た。月のひかりはふるえて動いた。物を撃つような音がまたもや三度きこえたかと思うと、すべての物がかの黒い影に呑まれて、さらにまた大いなる暗黒《くらやみ》のうちに隠れてしまったが、やがてその暗黒が退《の》くと共に、黒い影もまったく消え失せて、今まで光りを奪われていたテーブルの上の蝋燭の火は再びしずかに明かるくなった。爐の火も再び燃えはじめた。この室内は再びもとの平穏の姿に立ちかえった。
二つのドアはなおしまったままで、Fの部屋へ通ずるドアにも錠をおろしてあった。壁の隅には、かの犬が追い込まれて、痙攣《けいれん》したように横たわっているので、わたしは試みに呼んでみたが、犬はなんの答えもなかった。さらに近寄ってよく観ると、眼の球《たま》は飛び出して、口からは舌を吐いて、顎《あご》からは泡をふいて、犬はもう死んでいるのであった。
わたしはかれを抱きあげて火のそばへ連れて来たが、哀れなる愛犬の死について、強い悲哀と強い自責とを感ぜずにはいられなかった。私がかれを死地へ連れ込んだのである。最初は恐怖のために死んだのであろうと想像していたが、その頸《くび》の骨が実際に砕《くだ》かれているのを発見して、わたしはまた驚いた。それが暗中になされたとすれば、それは私のような人間の手によってなされなければなるまい。して見ると、最初から終わりまでこの室内に人間が働いていたのであろうか。それについて何か疑わしい形跡があるであろうか。私はこの以上に何事をも詳しく語ることが出来ないのであるから、よろしく読者の推断に任せるのほかはない。
もう一つ驚くべきは、さっき不思議に紛失した私の懐中時計がテーブルの上に戻っていた。但《ただ》し、あたかもそれが紛失した時刻のところで、時計の針は止まっているのである。その後、上手な時計屋へ持って行って幾度も修繕してもらったが、いつも数時間の後には針の廻転が妙に不規則になって、結局は止まってしまうことになるので、その時計はとうとう廃物になった。
その後はもう変わったことはなかった。わたしは夜のあけるまで待っていたが、何事もなかった。日が出て、世間が昼になって、わたしがこの家を立ち去るまで、もう何事もなかったのである。
いよいよここを立ち去る前に、わたしとFとが監禁された部屋、窓のない部屋へ再びはいってみた。奇異なる事件の機械的作用――もしこんな言葉があるならば――を作り出したこの部屋へ今や白昼に踏み込んで、ゆうべの怖ろしさを再び思い出すと、わたしは一刻もここに立っているに堪《た》えられないので、早そうに階段を降りかかると、またもやわたしのさきに立ってゆく跫音《あしおと》がきこえた。そうして、表の入り口のドアをあけた時に、うしろでかすかな笑い声がきこえたようにも思われた。
わたしは自分の家へ帰った。ゆうべ逃亡した雇い人は定めて顔を見せるだろうと思いのほか、Fはどこへ行ってしまったか、一向にその消息が分からないのであった。三日の後にリヴァプールからの手紙が来た。
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先夜はご覧の通りの始末で、なんとも申しわけがございません。わたくしが本当に回復するにはこれから一年以上もかかるだろうと存じますから、もちろん今後のご奉公は出来ません。わたくしはこれからメルボルンにいる義兄弟のところへ尋ねて行くつもりで、その船は明日出帆いたします。長い航海をつづけているうちには、わたくしも気がしっかりして来るであろうと存じます。なにしろ唯今《ただいま》のところでは恐怖と戦慄があるばかりで、怖ろしい物が常に自分のうしろに付きまとっているように思われてなりません。それからはなはだ恐れ入りますが、わたくしの衣類や荷物のたぐいは、ウォルウォースにいるわたくしの母のところへお届けを願います。母の住所はジョンが知っております。――
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手紙の終わりには、なおいろいろの弁解が付け加えてあって、やや辻褄《つじつま》の合わない点もあるが、筆者はすこぶる注意して書いたらしく、くどくどと列《なら》べ立ててあった。本人はかねて濠州《ごうしゅう》へ行きたい希望があったので、それをゆうべの事件に結び付けて、こんな拵《こしら》え事をしたのではないかとも疑われるが、私はそれについてなんにも言わない。むしろ世間には信ずべからざることを信ずる人がたくさんあって、彼もその一人であろうと思った。いずれにしても、この事件に対するわたしの信念と推理は動かないのである。
夕方になって、わたしは貸馬車を雇って再びかの化け物屋敷へ行った。そこへ置いて来たわたしの物と、死んだ犬の亡骸《なきがら》とを引き取るためであったが、今度は別になんの邪魔もなかった。ただその階段を昇り降りするときに、例の跫音を聞いたほかには、わたしの注意にあたいするような出来事もなかった。
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