世界怪談名作集06 信号手(04) (しんごうしゅ)
世界怪談名作集06 信号手(04)
彼は激しい恐怖と戦慄を増したような風情で「どうか退《ど》いてくれ!」と言うらしい仕科《しぐさ》をして見せた。そうして、さらに話しつづけた。
「私はもうそれがために平和も安息も得られないのです。あの幽霊はなんだか苦しそうなふうをして、何分間もつづけて私を呼ぶのです。……〈下にいる人! 見ろ、見ろ〉……そうして、私を差し招くのです。そうして、その小さいベルを鳴らすのです」
私はそれを引き取って言った。
「では、私がゆうべ来ていたときに、そのベルが鳴ったのですか。君はそれがために戸のところへ出て行ったのですか」
「そうです。二度も鳴ったのです」
「どうもおかしいな」と、私は言った。「その想像は間違っているようですね。あのとき私の眼はベルの方を見ていて、私の耳はベルの方に向いていたのだから、私のからだに異状がない限りは、あのときにベルは一度も鳴らないと思いますよ。あのとき以外にも鳴りませんでした。もっとも、君が停車場と通信をしていたときは別だが……」
彼はかしらをふった。
「わたしは今までベルを聞き誤まったことは一度もありません。わたしは幽霊が鳴らすベルと、人間が鳴らすベルとを混同したことはありません。幽霊の鳴らすベルは、なんともいえない一種異様のひびきで、そのベルは人の眼にみえるように動くのではないのです。それがあなたの耳には聞こえなかったかも知れませんが、私には聞こえたのです」
「では、あのときに外を見たらば、怪しい物がいたようでしたか」
「あすこにいました」
「二度ながら……?」
「二度ながら……」と、彼ははっきりと言い切った。
「では、これから一緒に出て行って見ようじゃありませんか」
彼は下くちびるを噛みしめて、あまり行きたくない様子であったが、それでも故障なしに起ちあがった。私はドアをあけて階段に立つと、彼は入り口に立った。そこには危険信号燈が見える。暗いトンネルの入り口がみえる。ぬれた岩の高い断崖がみえる。その上にはいくつかの星がかがやいていた。
「見えますか」と、私は彼の顔に特別の注意を払いながら訊いた。
彼の眼は大きく――それはおそらくそこを見渡したときの私の眼ほどではなかったかもしれないが――緊張したように輝いていた。
「いえ、いません」
「わたしにも見えない」
二人は再びうちにはいって、ドアをしめて椅子にかかった。私はいまこの機会をいかによく利用しようかということを考えていたのである。たとい何か彼を呼ぶものがあるとしても、ほとんど真面目に論議するにも足らないような事実を楯《たて》にとって、彼がそれを当然のことのように主張する場合には、なんと言ってそれを説き導いてよかろうか。そうなると、わたしははなはだ困難な立場にあると思ったからである。
「これで、私がどんなに困っているかということが、あなたにもよくお分かりになったろうと思いますが、いったいなんであの幽霊が出るのでしょうか」
私は彼に対して、自分はまだ十分に理解したとは言いかねると答えると、彼はその眼を爐の火に落として、時どきに私の方をみかえりながら、沈みがちに言った。
「なんの知らせでしょうか。どんな変事が起こるのでしょうか。その変事はどこに起こるのでしょうか。線路の上のどこかに危険がひそんでいて、おそるべき禍《わざわ》いが起こるのでしょう。いままでのことを考えると、今度は三度目です。しかし、これはたしかに私を残酷に苦しめるというものです。どうしたらいいでしょうか」
彼はハンカチーフを取り出して、その熱いひたいからしたたる汗を拭いた。そうして、さらに手のひらを拭きながら言った。
「わたしが上下線の一方か、または両方へ危険信号を発するとしても、さてその理由をいうことが出来ないのです。私はいよいよ困るばかりで、碌《ろく》なことにはなりません。みんなは私が気でも狂ったと思うでしょう。まずこんなことになります。……私が〈危険、警戒ヲ要ス〉という信号をすると、〈イカナル危険ナリヤ、場所ハイズコナリヤ〉という返事が来ます。それにたいして、私が〈ソレハ不明、ゼヒトモ警戒ヲ要ス〉と答えるとしたら、どうなるでしょう。結局わたしは免職になるのほかはありますまい」
彼の悩みは見るにたえないほどであった。こんな不可解の責任のために、その生活をもくつがえすということは、実直な人間にとって精神的苦痛に相違なかった。彼は黒い髪をうしろへ押しやって、極度の苦悩にこめかみをこすりながら言いつづけた。
「その怪しい影が初めて危険信号燈の下に立った時に、どこに事件が起こるかということを、なぜ私に教えてくれないのでしょう。それがどうしても起こるのなら……。そうしてまた、それが避けられるものならば、どうしたらそれを避けられるかということを、なぜ私に話してくれないのでしょう。二度目に来た時には顔を隠していましたが、なぜその代りに〈女が死ぬ、外へ出すな〉と言わないのでしょう。前の二度の場合は、その予報が事実となって現われることを示して、私に三度目の用意をしろと言うにとどまるならば、なぜもっとはっきりと私に説明してくれないのでしょう。悲しいかな、私はこの寂寥《せきりょう》たるステーションにある一個の哀れなる信号手に過ぎないのです。彼はなぜ私以上に信用もあり実力もある人のところへ行かないのでしょうか」
このありさまを見た時に、私はこの気の毒な男のために、また二つには公衆の安全のために、自分としてはこの場合、つとめて彼の心を取り鎮めるように仕向けなければならないと思った。そこで私は、それが事実であるかないかというような問題を別にして、誰でもその義務をまっとうするほどの人は、せいぜいその仕事をよくしなければならないということを説きすすめると、彼は怪しい影の出現について依然その疑いを解かないまでも、自己の職責をまっとうするということについて一種の慰藉《いしゃ》を感じたらしく、この努力は彼が信じている怪談を理屈で説明してやるよりも遙かに好結果を奏したのであった。
彼は落ちついてきた。夜の更《ふ》けるにしたがって、彼は自分の持ち場に偶然おこるべき事故に対して、いっそうの注意を払うようになった。私は午前二時ごろに彼に別れて帰った。朝まで一緒にとどまっていようと言ったのであるが、彼はそれには及ばないと断わったのである。
わたしは坂路を登るときに、いくたびか、あの赤い灯をふり返って見た。その灯はどうも心持ちがよくなかった。もしあの下にわたしの寝床があったとしたら、私はおそらく眠られないであろう。まったくそうである。私はまた、鉄道事故と死んだ女との二つの事件についても、いい心持ちがしない。どちらもまったくそうである。しかもそれらのことよりも最も私の気にかかるのは、この打ち明け話を聴いた私の立ち場として、これをどうしたらいいかということであった。
かの信号手は相当に教育のある、注意ぶかい、丹念な確かな人間であるには相違ないが、ああいう心持ちでいた日には、それがいつまで続くやら分からない。彼の地位は低いけれども、最も重要な仕事を受け持っているのである。私もまた彼があくまでも、かの事件の探究を続けるという場合に、いつまでも一緒になって自分の暇をつぶしてはいられないのである。
わたしは彼が所属の会社の上役に書面をおくって、彼から聴いた顛末《てんまつ》を通告しようかと思ったが、彼になんらの相談もしないで仲介の位地《いち》に立つことは、なんだか彼を裏切るような感じが強かったので、私は最後に決心して、この方面で知名の熟練の医師のところへ彼を同伴して、一応《いちおう》その医師の意見を聴くことにした。彼の話によると、信号手の交代時間は次の日の夜に廻って来るので、彼は日の出後一、二時間で帰ってしまって、日没後から再び職務に就くことになっているというので、私もひとまず帰ることにした。
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