世界怪談名作集06 信号手(05) (しんごうしゅ)
世界怪談名作集06 信号手(05)
次の夜は心持ちのいい晩で、わたしは遊びながらに早く出た。例の断崖の頂上に近い畑路を横ぎるころには、夕日がまだまったく沈んでいなかったので、もう一時間ばかり散歩しようと私は思った。半時間行って、半時間戻れば、信号手の小屋へ行くにはちょうどいい刻限になるのであった。
そこで、このそぞろ歩きをつづける前に、わたしは崖のふちへ行って、先夜初めて信号手を見た地点から何ごころなく見おろすと、私はなんとも言いようがないようにぞっとした。トンネルの入り口に近いところで、ひとりの男が左の袖《そで》を眼にあてながら、熱狂的にその右の手を振っているのである。
わたしを圧迫したその言い知れない恐怖は、一瞬間にして消え失せた。次の瞬間には、その男がほんとうの人間であることが分かったのである。それから少し離れたところには、いくらかの人がむらがっていて、かの男はその群れにむかって何かの手真似をしているのであった。危険信号燈にはまだ灯がはいっていなかった。私はこのとき初めて見たのであるが、信号燈の柱のむこうに小さい低い小屋があった。それは木材と脂布《あぶらぬの》とで作られて、やっと寝台を入れるくらいの大きさであった。
何か変事が出来《しゅったい》したのではないか。私が信号手ひとりをそこに残して帰ったがために、何か致命的《ちめいてき》の災厄が起こったのではあるまいか。だれも彼のすることを見ている者もなく、またそれを注意する者もなかったがために、何かの変事が出来したのではあるまいか。
――こういう自責の念に駆《か》られながら、私は出来るだけ急いで坂路を降りて行った。
「何事が起こったのです」と、私はそこらにいる人たちに訊いた。
「信号手が、けさ殺されたのです」
「この信号所の人ですか」
「そうです」
「では、わたしの知っている人ではないかしら」
「ご存じならば、お分かりになりましょう」と、一人の男が他に代って、丁寧に脱帽して答えた。そうして、脂布のはしをあげて、「まだ顔はちっとも変わっていません」
「おお。どうしたのです、どうしてこんなことになったのです」
小屋が再びしめられると、私は人びとを交るがわるに見まわしながら訊いた。
「機関車に轢《ひ》かれたのです。英国じゅうでもこの男ほど自分の仕事をよく知っている者はなかったのですが、あるいは外線のことについていくらか暗いところがあったと見えます。時は真っ昼間で、この男は信号燈をおろして、手にランプをさげていたのです。機関車がトンネルから出て来たときに、この男は機関車の方へ背中をむけていたものですから、たちまちに轢かれてしまいました。あの男が機関手で、今そのときの話をしているところです。おい、トム。このかたに話してあげるがいい」
粗末な黒い服を着ている男が、さきに立っていたトンネルの入り口に戻って来て話した。
「トンネルの曲線《カーブ》まで来たときに、そのはずれの方にあの男が立っている姿が遠眼鏡をのぞくように見えたのですが、もう速力をとめる暇《ひま》がありません。また、あの男もよく気がついていることだろうと思っていたのです。ところが、あの男は汽笛をまるで聞かないらしいので、私は汽笛をやめて、精いっぱいの大きい声で呼びましたが、もうその時にはあの男を轢き倒しているのです」
「なんと言って呼んだのです」
「下にいる人! 見ろ、見ろ。どうぞ退《ど》いてくれ。……と、言いました」
私はぎょっとした。
「実にどうも忌《いや》でしたよ。私はつづけて呼びました。もう見ているのがたまらないので、私は自分の片腕を眼にあてて、片手を最後まで振っていたのですが、やっぱり駄目《だめ》でした」
この物語の不思議な事情を詳細に説明するのはさておいて、終わりに臨んで私が指摘したいのは、不幸なる信号手が自分をおびやかすものとして、私に話して聞かせた言葉ばかりでなく、わたし自身が「下にいる人!」と彼を呼んだ言葉や、彼が真似てみせた手振りや、それらがすべて、かの機関手の警告の言葉と動作とに暗合しているということである。
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