世界怪談名作集03 スペードの女王(03) (すぺーどのじょおう)

世界怪談名作集03 スペードの女王(03)

 実際、リザヴェッタ・イヴァノヴナは非常に不幸な女であった。ダンテは「未熟なるもののパンは苦《にが》く、彼の階梯は急なり」と言っている。しかもこの老貴婦人の憐れな話し相手リザヴェッタが、居候《いそうろう》と同じような辛《つら》い思いをしていることを知っている者は一人もなかった。A伯爵夫人はけっして腹の悪い婦人ではなかったが、この世の中からちやほや[#「ちやほや」に傍点]されて来た婦人のように気まぐれで、過去のことばかりを考えて現在のことを少しも考えようとしない年寄りらしく、いかにも強欲で、我儘《わがまま》であった。彼女はあらゆる流行社会に頭を突っ込んでいたので、舞踏会にもしばしば行った。そうして、彼女は時代おくれの衣裳やお化粧をして、舞踏室になくてはならない不格好な飾り物のように、隅の方に席を占めていた。
 舞踏室へはいって来た客は、あたかも一定の儀式ででもあるかのように彼女に近づいて、みな丁寧に挨拶するが、さてそれが済むと、もう誰も彼女の方へは見向きもしなかった。彼女はまた自分の邸で宴会を催す場合にも、非常に厳格な礼儀を固守していた。そのくせ、彼女はもう人びとの顔などの見分けはつかなかった。
 夫人のたくさんな召使いたちは主人の次の間や自分たちの部屋にいる間にだんだん肥って、年をとってゆく代りに、自分たちの仕《し》たい三昧《ざんまい》のことをして、その上おたがいに公然と老伯爵夫人から盗みをすることを競争していた。そのなかで不幸なるリザヴェッタは家政の犠牲者であった。彼女は茶を淹《い》れると、砂糖を使いすぎたと言って叱られ、小説を読んで聞かせると、こんなくだらないものをと言って、作者の罪が自分の上に降りかかって来る。夫人の散歩のお供をして行けば、やれ天気がどうの、舗道がどうのと言って、やつあたりの小言を喰う。給料は郵便貯金に預けられてしまって、自分の手にはいるということはほとんどない。ほかの人たちのような着物を買いたいと思っても、それも出来ない。特に彼女は社交界においては実にみじめな役廻りを演じていた。誰も彼も彼女を知ってはいるが、たれ一人として彼女に注目する者はなかった。
 舞踏会に出ても、彼女はただ誰かに相手がない時だけ引っ張り出されて踊るぐらいなもので、貴婦人連も自分たちの衣裳の着くずれを直すために舞踏室から彼女を引っ張り出す時ででもなければ、彼女の腕に手をかけるようなことはなかった。したがって、彼女はよく自己を知り、自己の地位をもはっきりと自覚していたので、なんとかして自分を救ってくれるような男をさがしていたのであるが、そわそわと日を送っている青年たちはほとんど彼女を問題にしなかった。しかもリザヴェッタは世間の青年たちが追い廻している、面《つら》の皮の厚い、心の冷たい、年頃《としごろ》の娘たちよりは百層倍も可愛らしかった。彼女は燦爛《さんらん》として輝いているが、しかも退屈な応接間からそっと忍び出て、小さな惨《みじ》めな自分の部屋へ泣きにゆくこともしばしばあった。その部屋には一つの衝立《ついたて》と箪笥と姿見と、それからペンキ塗りの寝台があって、あぶら蝋燭が銅製の燭台の上に寂しくともっていた。
 ある朝――それはこの物語の初めに述べた、かの士官たちの骨牌《かるた》会から二日ほどの後《のち》で、これからちょうど始まろうとしている事件の一週間前のことであった。リザヴェッタ・イヴァノヴナは窓の近くで、刺繍台の前に腰をかけていながら、ふと街《まち》の方を眺めると、彼女は若い工兵隊の士官が自分のいる窓をじっと見上げているのに気がついたが、顔を俯向《うつむ》けてまたすぐに仕事をはじめた。それから五分ばかりのあと、彼女は再び街のほうを見おろすと、その青年士官は依然として同じ場所に立っていた。しかし、往来の士官に色眼などを使ったことのない彼女は、それぎり街のほうをも見ないで、二時間ばかりは首を下げたままで、刺繍をつづけていた。
 そのうちに食事の知らせがあったので、彼女は立って刺繍の道具を片付けるときに、なんの気もなしにまたもや街のほうをながめると、青年士官はまだそこに立っていた。それは彼女にとってまったく意外であった。食後、彼女は気がかりになるので、またもやその窓へ行ってみたが、もうその士官の姿は見えなかった。――その後、彼女は、その青年士官のことを別に気にもとめていなかった。
 それから二日を過ぎて、あたかも伯爵夫人と馬車に乗ろうとしたとき、彼女は再びその士官を見た。彼は毛皮の襟で顔を半分かくして、入り口のすぐ前に立っていたが、その黒い両眼は帽子の下で輝いていた。リザヴェッタはなんとも分からずにはっとして、馬車に乗ってもまだ身内がふるえていた。
 散歩から帰ると、彼女は急いで例の窓ぎわへ行ってみると、青年士官はいつもの場所に立って、いつもの通りに彼女を見あげていた。彼女は思わず身を引いたが、次第に好奇心にかられて、彼女の心はかつて感じたことのない、ある感動に騒がされた。
 このとき以来、かの青年士官が一定の時間に、窓の下にあらわれないという日は一日もなかった。彼と彼女のあいだには無言のうちに、ある親しみを感じて来た。いつもの場所で刺繍をしながら、彼女は彼の近づいて来るのをおのずからに感じるようになった。そうして顔を上げながら、彼女は一日ごとに彼を長く見つめるようになった。青年士官は彼女に歓迎されるようになったのである。彼女は青春の鋭い眼で、自分たちの眼と眼が合うたびに、男の蒼白い頬がにわかに紅《あか》らむのを見てとった。それから一週間目ぐらいになると、彼女は男に微笑を送るようにもなった。
 トムスキイが彼の祖母の伯爵夫人に、友達の一人を紹介してもいいかと訊いたとき、この若い娘のこころは烈《はげ》しくとどろいた。しかしナルモヴが、工兵士官でないと聞いて、彼女は前後の考えもなしに、自分の心の秘密を気軽なトムスキイに洩らしてしまったことを後悔した。
 ヘルマンはロシアに帰化したドイツ人の子で、父のわずかな財産を相続していた。かれは独立自尊の必要を固く心に沁み込まされているので、父の遺産の収入には手も触れないで、自分自身の給料で自活していた。したがって彼に、贅沢などは絶対に許されなかったが、彼は控え目がちで、しかも野心家であったので、その友人たちのうちには稀《まれ》には極端な節約家の彼に散財させて、一夕《いっせき》の歓を尽くすようなこともあった。
 彼は強い感情家であるとともに、非常な空想家であったが、堅忍不抜な性質が彼を若い人間にありがちな堕落におちいらせなかった。それであるから、肚《はら》では賭け事をやりたいと思っても、彼はけっして一枚の骨牌をも手にしなかった。彼にいわせれば、自分の身分では必要のない金を勝つために、必要な金をなくすことは出来ないと考えていたのである。しかも彼は骨牌のテーブルにつらなって、夜通しそこに腰をかけて、勝負の代るごとに自分のことのように心配しながら見ているのであった。
 三枚の骨牌の物語は、彼の空想に多大な刺戟《しげき》をあたえたので、彼はひと晩そのことばかりをかんがえていた。
「もしも……」と、次の朝、彼はセント・ペテルスブルグの街を歩きながら考えた。「もしも老伯爵夫人が彼女の秘密を僕に洩らしてくれたら……。もしも彼女が三枚の必勝の切り札を僕に教えてくれたら……。僕は自分の将来を試さずにはおかないのだが……。僕はまず老伯爵夫人に紹介されて、彼女に可愛がられなければ――彼女の恋人にならなければならない……。しかしそれはなかなか手間がかかるぞ。なにしろ相手は八十七歳だから……。ひょっとすると一週間のうちに、いや二日も経たないうちに死んでしまうかもしれない。三枚の骨牌の秘密も彼女とともに、この世から永遠に消えてしまうのだ。いったいあの話はほんとうかしら……。いや、そんな馬鹿らしいことがあるものか。経済、節制、努力、これが僕の三枚の必勝の切り札だ。この切り札で僕は自分の財産を三倍にすることが出来るのだ……。いや、七倍にもふやして、安心と独立を得るのだ」
 こんな瞑想にふけっていたので、彼はセント・ペテルスブルグの目貫《めぬき》の街の一つにある古い建物の前に来るまで、どこをどう歩いていたのか気がつかなかった。街は、燦然《さんぜん》と輝いているその建物の玄関の前へ、次から次へとひき出される馬車の行列のために通行止めになっていた。その瞬間に、妙齢の婦人のすらりとした小さい足が馬車から舗道へ踏み出されたかと思うと、次の瞬間には騎兵士官の重そうな深靴や、社交界の人びとの絹の靴下や靴があらわれた。毛皮や羅紗の外套が玄関番の大男の前をつづいて通った。
 ヘルマンは立ち停まった。
「どなたのお邸《やしき》です」と、彼は角のところで番人にたずねた。
「A伯爵夫人のお邸です」と、番人は答えた。
 ヘルマンは飛び上がるほどにびっくりした。三枚の切り札の不思議な物語がふたたび彼の空想にあらわれて来た。彼はこの邸の前を往きつ戻りつしながら、その女主人公と彼女の奇怪なる秘密について考えた。
 彼は遅くなって自分の質素な下宿へ帰ったが、長いあいだ眠ることが出来なかった。ようよう少しく眠りかけると、骨牌や賭博台や、小切手の束や、金貨の山の夢ばかり見た。彼は順じゅんに骨牌札に賭けると、果てしもなく勝ってゆくので、その金貨を掻きあつめ、紙幣をポケットに捻《ね》じ込んだ。
 しかも翌あさ遅く眼をさましたとき、彼は空想の富を失ったのにがっかりしながら街へ出ると、いつの間にか伯爵夫人の邸の前へ来た。ある未知《みち》の力がそこへ彼を引き寄せたともいえるのである。彼は立ち停まって窓を見上げると、一つの窓から房ふさとした黒い髪の頭が見えた。その頭はおそらく書物か刺繍台の上にうつむいていたのであろう。と思う間に、その頭はもたげられ、生き生きとした顔と黒い二つのひとみが、ヘルマンの眼にはいった。
 彼の運命はこの瞬間に決められてしまった。





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