世界怪談名作集06 信号手(01) (しんごうしゅ)
世界怪談名作集06 信号手(01)
ディッケンズ Charles Dickens
岡本綺堂訳
「おぅい、下にいる人!」
わたしがこう呼んだ声を聞いたとき、信号手は短い棒に巻いた旗を持ったままで、あたかも信号所の小屋の前に立っていた。この土地の勝手を知っていれば、この声のきこえた方角を聞き誤まりそうにも思えないのであるが、彼は自分の頭のすぐ上の嶮《けわ》しい断崖の上に立っている私を見あげもせずに、あたりを見まわして更に線路の上を見おろしていた。
その振り向いた様子が、どういう訳《わけ》であるか知らないが少しく変わっていた。実をいうと、わたしは高いところから烈《はげ》しい夕日にむかって、手をかざしながら彼を見ていたので、深い溝《みぞ》に影を落としている信号手の姿はよく分からなかったのであるが、ともかくも彼の振り向いた様子は確かにおかしく思われたのである。
「おぅい、下にいる人!」
彼は線路の方角から振り向いて、ふたたびあたりを見まわして、初めて頭の上の高いところにいる私のすがたを見た。
「どこか降りる所はありませんかね。君のところへ行って話したいのだが……」
彼は返事もせずにただ見上げているのである。わたしも執拗《しつこ》く二度とは聞きもせずに見おろしていると、あたかもその時である。最初は漠然とした大地と空気との動揺が、やがて激しい震動に変わってきた。わたしは思わず引き倒されそうになって、あわてて後ずさりをすると、急速力の列車があたかも私の高さに蒸気をふいて、遠い景色のなかへ消えて行った。
ふたたび見おろすと、かの信号手は列車通過の際に揚げていた信号旗を再び巻いているのが見えた。わたしは重ねて訊《き》いてみると、彼はしばらく私をじっと見つめていたが、やがて巻いてしまった旗をかざして、わたしの立っている高い所から二、三百ヤードの遠い方角を指し示した。
「ありがとう」
私はそう言って、示された方角にむかって周囲を見廻すと、そこには高低のはげしい小径《こみち》があったので、まずそこを降りて行った。断崖はかなりに高いので、ややもすれば真っ逆さまに落ちそうである。その上に湿《しめ》りがちの岩石ばかりで、踏みしめるたびに水が滲《し》み出して滑《すべ》りそうになる。そんなわけで、わたしは彼の教えてくれた道をたどるのがまったく忌《いや》になってしまった。
私がこの難儀な小径を降りて、低い所に来た時には、信号手はいま列車が通過したばかりの軌道《レール》の間に立ちどまって、私が出てくるのを待っているらしかった。
信号手は腕を組むような格好をして、左の手で顎《あご》を支え、その肱《ひじ》を右の手の上に休めていたが、その態度はなにか期待しているような、また深く注意しているようなふうにみえたので、わたしも怪訝《けげん》に思ってちょっと立ちどまった。
わたしは再びくだって、ようやく線路とおなじ低さの場所までたどり着いて、はじめて彼に近づいた。見ると、彼は薄黒い髭《ひげ》を生やして、睫毛《まつげ》の深い陰鬱な青白い顔の男であった。その上に、ここは私が前に見たよりも荒涼陰惨というべき場所で、両側には峨峨《がが》たる湿《しめ》っぽい岩石ばかりがあらゆる景色をさえぎって、わずかに大空を仰ぎ観るのである。一方に見えるのは、大いなる牢獄としか思われない曲がりくねった岩道の延長があるのみで、他の一方は暗い赤い灯のあるところで限られた、そこには暗黒なトンネルのいっそう暗い入り口がある。その重苦しいような畳み石は、なんとなく粗野《そや》で、しかも人を圧するような、堪《た》えられない感じがする上に、日光はほとんどここへ映《さ》し込まず、土臭い有毒らしい匂いがそこらにただよって、どこからともなしに吹いて来る冷たい風が身に沁みわたった。私はこの世にいるような気がしなくなった。
彼が身動きをする前に、私はそのからだに触《ふ》れるほどに近づいたが、彼はやはり私を見つめている眼を離さないで、わずかにひと足あとずさりをして、挨拶の手を挙げたばかりであった。前にもいう通り、ここはまったく寂しい場所で、それが向こうから見たときにも私の注意をひいたのである。おそらくたずねて来る人は稀であるらしく、また稀に来る人をあまり歓迎もしないらしく見えた。
わたしから観ると、彼は私が長い間どこかの狭い限られた所にとじこめられていて、それが初めて自由の身となって、鉄道事業といったような重大なる仕事に対して、新たに眼ざめたる興味を感じて来た人間であると思っているらしい。私もそういうつもりで彼に話しかけたのであるが、実際はそんなこととは大違いになって、むしろ彼と会話を開かない方が仕合わせであったどころか、更に何か私をおびやかすようなものがあった。
彼はトンネルの入り口の赤い灯の方を不思議そうに見つめて、何か見失ったかのように周囲を見まわしていたが、やがて私の方へ向き直った。あの灯は彼が仕事の一部であるらしく思われた。
「あなたはご存じありませんか」と、彼は低い声で言った。
その動かない二つの眼と、その幽暗な顔つきを見た時に、彼は人間ではなく、あるいは幽霊ではないかという怪しい考えが私の胸に浮かんで来たので、私はそのご絶えず彼のこころに感受性を持つかどうかを注意するようになった。
私はひと足さがった。そうして、彼がひそかに私を恐れている眼色を探り出した。これで彼を怪しむ考えもおのずと消えたのである。
「君はなんだか私を怖《こわ》そうに眺めていますね」と、私はしいて微笑《ほほえ》みながら言った。
「どうもあなたを以前に見たことがあるようですが……」と、彼は答えた。
「どこで……」
彼はさきに見つめていた赤い灯を指さした。
「あすこで……?」と、わたしは訊いた。
彼は非常に注意ぶかく私を打ちまもりながら、音もないほどの低い声で「はい」と答えた。
「冗談じゃあない。私がどうしてあんなところに行っているものですか。かりに行くことがあるとしても、今はけっしてあすこにいなかったのです。そんなはずはありませんよ」
「わたしもそう思います。はい、確かにおいでにならないとは思いますが……」
彼の態度は、わたしと同じようにはっきりしていた。彼は私の問いに対しても正確に答え、よく考えてものを言っているのである。彼はここでどのくらいの仕事をしているかといえば、彼は大いに責任のある仕事をしているといわなければならない。まず第一に、正確であること、注意ぶかくあることが、何よりも必要であり、また実務的の仕事という点からみても、彼に及ぶものはないのである。信号を変えるのも、燈火《あかり》を照らすのも、転轍《てんてつ》のハンドルをまわすのも、みな彼自身の頭脳の働きによらなければならない。
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